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東日本大震災の際に困った首都圏オフィスの事例22

BCPって常識?

特別インタビュー

ビルを守る仕事をする人々が、被災地仙台で見たもの

2011年3月11日、東北の仙台市を震度6の地震が襲いました。仙台市内は内陸部に位置するため、沿岸部で大きな被害をもたらした津波には襲われなかったものの、ライフラインが停止し、多くのオフィスビルや店舗も閉鎖を余儀なくされました。落ちてくる天井、停電で暗くなった室内、パニックを起こす人々・・・。そんな中、日ごろから建物の点検や修繕などを仕事としている管理会社の人々は、休むことなくひたすら復旧作業に奔走していました。混乱した被災地仙台で何が起こり、何を見てきたのか、わたしたちザイマックスグループで建物管理サービスを提供する㈱ザイマックスビルマネジメント東北支社(仙台)の担当者に、当時の様子や、今、振り返って教訓とすべきことを聞いてみました。

㈱ザイマックスビルマネジメント

設立年月日1971年12月3日
事業内容総合ビルメンテナンス、プロパティマネジメント、清掃、工事、警備・保安、資材電材販売 など
管理物件数常駐物件233物件、巡回物件875物件 (2011年4月現在)
従業員数2,725名(2011年4月現在 連結関連会社8社合算 )

机の下に隠れる余裕なんてない。その場でうずくまるしかなかった。

東北支社 仙台興和ビル 三上武之さん

東北支社 仙台興和ビル 三上武之さん

――仙台市は最大で震度6強を記録しましたが、地震が起きた瞬間、建物内部はどんな様子でしたか?

藤原私は当時、ある商業施設にいたのですが、天井材が落下したり、商品棚からは物が落ちて来ました。オフィスビルの場合、机の下に隠れましょうというようなことがよく言われていますが、隠れる余裕はありませんでした。震度6強ですと、そもそも立っていることができませんから、その場で頭を抱えてうずくまるとか、はいつくばって少し移動することくらいしかできません。恐怖のあまり腰を抜かしてしまったお客さまがいらっしゃったので、脇を抱きかかえて外に連れ出しました。

田邉大きな地震が発生すると、電気が落ち、防火シャッターが閉まり、警報が鳴り響く中、非常灯の小さな明かりだけを頼りに避難しなければなりませんから、消防訓練などの避難時とは恐怖感が違います。

三上私は仙台市内のオフィスビルの管理室にいましたが、中にいるテナントさんに向け「頭を守ってください。外に出ないでください」と非常用放送を入れ続けました。内部の被害はそれほど大きくありませんでしたが、一部不安になって、外に飛び出した方もいらっしゃったようです。

暗闇の中、あるはずの鍵が見つけられない。

――地震の揺れがおさまった後は、どんなことが起きましたか?

藤原火事は発生しませんでしたが、スプリンクラーが誤作動を起こし、あらゆる所で天井から水が噴き出していました。スプリンクラーを止めるため、ポンプ室に入ろうと思いましたが、鍵はテナント専用部内の金庫にあり、担当者に鍵を出してもらう必要がありました。でも、探し出すのに20分くらいかかったと思います。暗い室内ですし、テナントさんは恐怖で指が震えていました。普段は簡単にできることでも、心理状態が違うだけで、こんなにも変わってしまうのですね。また、他のビルでは火災報知機が誤作動を起こし、警報が鳴り続けていたところもありました。

田邉私は支社から現場へ直行し、水道のFMバルブ(水道本管から、受水槽への給水を制御する器具)を止めるように指示をしました。というのも、私は中越沖地震のときにダイエー長岡店で震災を経験したのですが、そのときに地震の揺れで市の配管が壊れ、ビルの受水槽にも赤いにごり水が入り、大変な思いをしたことがありました。それを防ぐためバルブ閉操作を指示したのです。

こんなにひどい被害だったなんて・・・。数時間後に知った。

東北支社 支社長 田邉敏則さん

東北支社 支社長 田邉敏則さん

――ライフラインの状況はどうでしたか?

三上仙台市内は停電が起こり、ガスはもちろん水も出ないところが多くありました。被害の状況もなかなか分からず、こんなにひどい被害だと知ったのは数時間後でした。

藤原当日、携帯電話はつながりませんでした。会社から指示を仰ぐことはできませんし、そもそも、そんな時間もありませんでした。災害時のマニュアルはありましたが、それに従って動くというよりも、勝手に体が動いた感じでした。

――建物を再開させるには、どんなステップがあるのですか?

三上電気、水道、ガスの順に復旧が進みます。まず、ビルの電気は、各ビルの電気主任技術者が確認しながら作業を進めることになっていますので、公共のライフラインと同時ではありません。仙台市内はだいたい3日後くらいから徐々に復旧したと思いますが、私の担当するビル(仙台市内)では、それよりも早く翌日に復電できました。
その後、水が復旧するのですが、今回の場合、仙台市内もエリアによってかなり差がありました。そもそも断水が起きなかったエリアもあれば、1ヶ月くらいかかったところもあります。

藤原そしてガスは一番最後になります。私が住んでいたところは、ガスもすぐに復旧されましたが、これはプロパンガスだったためです。

助けに行きたい。でも体は1つしかない。

――想定外の事態はどんなことがありましたか?

田邉一番困ったのは、取引先から「○○の物件を見に行ってもらえないか?」など担当者それぞれに個別に連絡が入り、担当者が仕事を抱え込む状態になってしまったことです。もちろん普段であればすぐに見に行くのですが、電車は止まっている、車もガソリンが手に入らない状況でしたから、何でもかんでも見に行くわけにはいきません。そこで、本社のほうで窓口を一本化し、会社対会社で対応するようにし、個人への負担を少なくました。彼らが倒れてしまっては、復旧はますます遅くなってしまいますから。

藤原ちょっと困ったことといえば、封鎖されているビルに何度も入ったテナントさんがいました。警報が鳴るたび、現地を確認しに行かなければなりませんでした。また、店の前には食料や日用品、ガソリンを求めて長蛇の列ができましたが、中には間に割り込もうとする人、こんな時なのに領収証を求める人もいたりして・・・。ほとんどの方はそんな行動をされないのですが、ほんの一部に困った方もいらっしゃいました。

震災の記憶を風化させないために、話をする。

東北支社 仙台巡回チーム 藤原僚太さん

東北支社 仙台巡回チーム 藤原僚太さん

――震災を受けて、教訓とすべきことは?

田邉今回の震災時で一番重要なものだと感じたのは、電源です。電源がなければ、情報を得ることもできない、連絡も取れませんから。最低限の電源は確保しておくべきだと感じました。

藤原公衆電話に行列ができ、仙台のアーケード街に設置された小型の発電機にも人が群がっていました。

三上私は防災機能を強化するためには何をすれば良いか、ビルのオーナーと話し合いながら、防災訓練の形も変えたりしています。みなさん訓練というと、避難して、点呼して、消火器を使って終了という形を想像されると思いますが、今回は「エレベータに乗っているときに地震が発生したら」という想定で、実際にテナントさんにエレベータに乗ってもらい、どういう行動をとるべきか身をもって体験してもらいました。

藤原これまであまり興味を示してくれなかったテナントさんの参加率も増え、訓練への感心は高まっていると感じます。

田邉ただ、今はまだ関心が高いかもしれませんが、人の記憶はどんどん風化していきます。「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」ということわざにもあるように、風化させないためにはそれなりの努力が必要です。震災を体験した人は、できるだけ当時の事を周りに話していくことも、その努力の1つだと思います。