渋谷と共に進化したくなるコラム

情報発信基地・渋谷 その歴史を紐解く

文 : 田中 佐江子

日本有数の繁華街として著名な街・渋谷。
常に最先端のビジネスを仕掛け続け、情報発信基地としても名高い渋谷は、不動産という観点から見ても価値が高く、貸し事務所も渋谷から青山エリアにかけてのビジネスに最良とされる地域に集積しています。

最先端のビジネス展開が図れる地として著名である渋谷のパワーの恩恵を受けようと、賃貸事務所にはIT系情報産業、アパレル系、美容系などの、時代の最先端を担おうとする各業態の企業が集中している傾向があります。

賃貸事務所の繁栄も含め、消費経済の中心である街として栄えてきた歴史を持つ渋谷。では、賃貸事務所の隆盛も誇るこの渋谷の街が現在の姿に至るまでに、どのような歴史を辿ってきたかご存知でしょうか?

平安時代から遡る、渋谷の歴史

賃貸事務所などを拠点として鮮やかなビジネス展開を手掛けてきたことのみならず、様々な文化を日本全体どころか世界に発信し続けている渋谷。その成り立ちは、遠く平安時代にまで遡ることができます。

平安末期の武家勃興の時代、渋谷氏(渋谷金王丸常光)を中心とする源氏諸将の伝説が社寺や地名として残されていて、「渋谷」という名前が初めて日本の地に登場したとして歴史上に認識されているのです。

鎌倉時代に入ると、現在の渋谷がある当時の武蔵国には、源氏の家人として功があった武蔵武士が地方豪族として多く住んでいたと言われています。
このため、渋谷区にもいくつかの鎌倉道が通じていて、中央地区の新しい文化の伝播や、渋谷自体の開発も、この鎌倉道周辺から進んでいったのです。

この後、南北朝時代から室町時代にかけて、渋谷及び原宿が次第に開拓されていき、後北条氏全盛時代には、下渋谷・原宿・千駄ヶ谷・幡ヶ谷に村落が発達していきました。

徳川時代には、下渋谷・原宿は江戸御府内に属し、もっとも開けた存在だったと伝えられています。この時代あたりから、現在の渋谷に通ずる変遷の兆しが窺えはじめます。この江戸時代の渋谷は、幕府の直轄地として統治されていました。

縄文時代の頃の渋谷は、地平にかろうじて出ていたいくつかの丘であって、その丘の部分に集まるようにして当時のひとびとは暮らしを営んでいた、とされています。それほど渋谷は地平の起伏が激しく、丘の多さに象徴される土地なのです。

江戸時代の渋谷の丘のほとんどは武家屋敷が集積する土地で、身分が高い者が住まう地域として活用されていました。

さて、渋谷の地域の本格的な繁栄は江戸時代に入ってからとも言われていて、江戸市街の繁昌に伴うようにして、渋谷の街の発展も顕著に見られるようになりました。

明治以降の渋谷の街の変遷

行政区画としての渋谷区の制定は、大政奉還を経て誕生した明治政府の統治下になってからのこと。
区として誕生する前段階として、村としての時代があり、明治22年市制町村制の施行により、上渋谷・中渋谷・下渋谷の3村を中心として、麻布・赤坂両区の一部を加え渋谷村が生まれました。

このほぼ同時期、明治18年に渋谷駅も誕生しています。赤羽から品川までを結ぶ品川線という路線ができたことを発端とし、これは当時、上野駅止まりだった日本鉄道東北本線と、新橋駅止まりだった東海道本線とを連絡するために建設された路線であることが伝聞として残されているのです。

赤羽~品川間に建設された駅は、渋谷・板橋・新宿の3駅のみ。このうち、板橋と新宿は宿場町としてすでに繁栄していた街で、対して渋谷は、今では信じられないことではあるのですが、当時の渋谷駅付近は建物らしい建物がなにもない街でした。

明治40年には、渋谷に先駆けて千駄ヶ谷が町制を実施。この背景に、千駄ヶ谷村が住宅地として発展し続けていたことが理由としてあげられています。これを追いかけるように、同42年、渋谷は村から町制を実施。

こうした長い歴史を経て、渋谷という土地が「渋谷区」として誕生したのが、昭和7年10月1日。渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併し、東京市渋谷区が成立。晴れて大東京35区の一環として誕生したのです。

千駄ヶ谷町が住宅地として街の発展を遂げてきたことに対し、渋谷はこの当時から商業の街として栄えてきました。合併を経て、元々街としてのそれぞれの持ち味を活かした形での成長を遂げる道すじを辿った結果、現在の渋谷という街が、商業エリアと住宅エリアを上手に共存させて繁栄している街として成り立っている、非常に稀有な土地として知られているのです。

戦後復興、そして、日本の「キーパーソン」渋谷へ

その後、第二次世界大戦などの戦争を経て、戦後の復興の時期を渋谷再建という目標に向け邁進する中で、渋谷の復興は渋谷駅から道玄坂を中心とした商業エリアから中心に始まったと言われています。

この理由は、商業の活性化が成功せずには街の再建はありえない、という理念があったからに他ならず。昭和30年に入ると、この年代を境に渋谷の地には高層ビルが次々に建設され、商業地区に加えて業務地区といわれるビジネス街が誕生。

渋谷は東京における副都心としての機能を有する街として、開発が進められていきました。
賃貸事務所ビルの建設が急加速で始められたのも、この時期になります。このあたりから、賃貸事務所ビルも含め、現在の渋谷に色濃く通ずる街の変遷が見受けられるようになるのです。

昭和39年に開催された東京オリンピックを転機とし、道路網の整備及び新設、拡張が行われ、渋谷区の町並みが大変貌を遂げました。現在の渋谷の大きな基盤を作ったのも、ちょうどこの時期のこと。そして、同じ頃ころ、賃貸事務所ビルの高スペック化が目立つようになっていきました。

昭和40年には渋谷区総合庁舎、渋谷公会堂が完成し、地方自治法の改正により福祉事務所などの事務が都から移管されたことも、街の活性化の追い風に。賃貸事務所ビルはますますの発展を遂げ、現在の渋谷の様相にも通じている賃貸事務所の集積が顕著に窺えるようになりました。

こうして、現在も着々と開発が進み続ける渋谷の大基盤が完成したのです。
歴史を紐解いてみると、渋谷という街がいかに国の舵取りと密接に連動しているかが窺えます。それほどまでに、日本という国にとって、渋谷という街が重要基盤として認識され続けてきているという証でもあり、歴史の生き証人として長い時間をかけて繁栄を続けてきた非常に強いパワーを持つ街でもあるのです。

歴史の生き証人としての渋谷は、常に日本の未来を担い続けるリードオフマンでもあるという事実。渋谷という街のタフさは、日本の誇りでもあります。

日本が今後、いかにして発展し続けていくか?世界経済という大海原の中でも自在に舵を切り続けていけるのか?その課題感を乗り越えて、さらなる日本経済の進展を遂げるためにも、渋谷が「キーパーソン」として、これからもその大役を担っていくことになるのでしょう。

文 : 田中 佐江子

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