港区で未来を描きたくなるコラム

日本人の気骨を港区の歴史より眺める

文 : 浅見 直希

東京という街を歩いていると、いつもこの街の持つ文化的・歴史的な資産の量の膨大さに目がくらみます。今回取り上げる港区も、もちろん、その例外ではありません。

例えば、新橋、芝、虎ノ門などのオフィス街では、ステイタスの高い賃貸オフィスが林のように立ち並び、かと思えば、少し視線を移しただけで、総尾州檜造り・銅板葺きの拝殿、弊殿を擁する虎ノ門金刀比羅宮(東京都選定歴史的建造物/設計者・伊東忠太)や、徳川家の菩堤寺として知られている増上寺・三解脱門(三門)の立派な瓦屋根が見えてきたりします。さらに、その増上寺のすぐ傍には、鉄骨むき出しの東京タワー(日本電波塔)が屹立していたりするのですから、江戸時代の人が見たら、きっとくるくる目を回すことでしょう。

さて、そんな具合に、日本人が歩んできた歴史の各ピリオドに、さまざまな記念碑的な足跡を刻んできたこの港区というエリアですが、このコラムの紙面ではその概略すら満足に記すことが叶いません。
ですので、ここはひとつ、日本人の気骨を示すエピソードに絞って、港区の歴史を眺めていきたいと思います。

引くこと知らずの、「め組の喧嘩」

「火事と喧嘩は江戸の花」とは良く聞く文句ではありますが、港区には当時のお江戸中を騒然とせしめた大喧嘩の舞台となったところがあります。
それが、芝大門にある「芝大神宮(通称、芝神明)」です。
芝は江戸時代以前には荏原郡柴村と呼ばれていましたが、1601(慶長6)年に東海道の起点として整備されて以来、急速に発展。柴町・芝町と称されるようになりました。
(そもそもの柴村の名前の由来は分かっていないようです。守護職「斯波(しば)氏」に因んだという説や、「芝草」「海苔そだの柴」に依るという説など様々あるようですが)

賃貸オフィスビルが林立し、ビジネスパーソンが闊歩する現代の港区のオフィスエリアさながら、江戸時代、この芝付近は大変な盛り場(今でいう商業エリア)だったようで、増上寺の門前には市が成し、商店・茶屋は軒を連ね、商人、町人の声が喧しく鳴り響いていたとのことです。

さて、そんな中、1805(文化2)年、芝神明宮で、ある事件が起こりました。それが「め組の喧嘩(けんか)」。
芝神明宮の境内で相撲の春場所が開催されていたのですが、その木戸賃(興行の見物料)をめぐって、町の火消し「め組」の鳶職と相撲部屋の力士たちが、大喧嘩を始めたのです。

入場料を払え、払わんの、実にささいな口論から発した喧嘩なのですが、双方、引くことなく、しまいには町奉行、寺社奉行、勘定奉行と三奉行が協議に乗り出すほどの大騒動に。死者が出なかったからよかったものの、気骨・胆力というものは、腹の底にこそ秘めておくもので、ぐっと我が意を引っ込めることも大切なことだなあと、思ったり。

境内には「め組」と刻印された狛犬の台石もあり、この歴史が確かにこの港区にあったのだと、再認識させられます。
と、こんな気忙しい江戸っ子のエピソードをご紹介しましたが、一方で、この神社には「だらだら祭り」という例祭も秋に開かれています。だらだらと長期間行われることから、そう呼ばれるようになった由。せっかちなのか暢気(のんき)なのか?今ひとつ図りかねるのが、江戸っ子の面白いところなのかもしれませんね。

江戸っ子の気概を腹に収め、お江戸を守った勝海舟

洗練された賃貸オフィスが集積する東京都港区には、一方で、古い歴史を宿す「坂」のつく地名が非常に多く残っています。

例えば、芝地区には「綱の手引坂」「綱坂」「日向坂(ひゅうがざか/誤って「ひなたざか」とも呼ばれる)」「幽霊坂」。
麻布地区には「なだれ坂」「丹波谷坂」「鉄砲坂」「道源寺坂」。
そして、赤坂地区には、「氷川坂」「円通寺坂」「九郎九坂」「檜坂」「紀伊国坂」「乃木坂(陸軍・乃木希典大将の逸話は有名ですね)」などがあります。

さて今度は、その中で、地区の名前からして「坂」がついている、赤坂地区の歴史エピソードについて少し触れてみましょう。

この港区赤坂にも、かつて、ある有名な生粋の江戸っ子が居を構えていました。そう、歴史的な幕末の偉人・勝海舟です。
幕臣として、明治維新のまさに前夜、1868(慶応4)年3月に、西軍(官軍/新政府軍)の西郷隆盛と和平交渉を行い(勝・西郷会談)、江戸無血開城を取り決めて、100万市民を戦火から守った勝海舟ですが、彼は終生、この港区赤坂の地を愛しました。

港区赤坂6丁目10番39号(旧赤坂氷川町)には、「勝海舟邸跡」の碑が残っています。1859(安政6)年から1868(明治元)年まで住んだこの港区赤坂6丁目時代こそが、勝海舟が最も華々しく歴史に名を刻んだ時期でした。旧土佐藩士・坂本龍馬を弟子にしたのも、この地でのこと。
明治維新後、かつての将軍・徳川慶喜に付き従って、一時静岡市に移りましたが、1872(明治5)年、再び上京。亡くなるまで、赤坂氷川町(現、港区赤坂6丁目)で過ごしました。

先に紹介した港区芝の「め組の喧嘩」とは反対に、江戸っ子の気概をぐっと腹に収めて和平交渉に当たった勝海舟。上品に洗練された賃貸オフィス群を眺めながら、時にそんな港区の歴史に思いを馳せてみると、自然と背筋がぴんと伸びるような心地がします。

ちなみに、和平交渉が行われた薩摩藩屋敷跡も、実は港区にあります(東京都港区芝5-33/この付近にも多くの賃貸オフィスがあります)。

建てるならば世界一!東京タワーに込めた戦後復興への意気

明治新政権の黎明期や第二次世界大戦後の復興期、日本は大きな不安や危機感と向き合っていました。
そんな国家としてヨチヨチ歩きの時期、その不安を吹き飛ばさんとするかのような力強い気宇を感じさせるエピソードを、港区の歴史は節目節目で見せてくれています。

例えば、文明開化の象徴ともいえる、日本初の鉄道停車場「新橋駅」(現、東京都港区)の開設。
そして、戦後すぐの1947(昭和22)年には、「戦後復興のためには貿易振興こそ肝要」との熱い想いを込め、「東京港」を抱合する区として、「港区」と区名を制定しています。

さて、戦後復興といってすぐに頭に浮かぶのは、港区が誇る「東京タワー」(港区芝)ではないでしょうか。東京タワーが完成を見たのは、1958(昭和33)年。太平洋戦争が終結して13年が経ったころのことでした。
高さは333メートルで、当時としては圧倒的。フランス・パリのエッフェル塔の312メートル(2000年現在は324メートル)より21メートルも高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高を誇りました。
日本映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(日本アカデミー賞受賞)でも爽やかに描かれていますが、港区に立つこのモダンな電波塔は、まさに戦後日本の豊かさへの憧れ、戦後復興の象徴だったのです。

以上、港区の歴史をいささか乱暴に述べてきましたが、そこからは確かに、日本人の「前向きな負けん気」=「気骨」が、豊かに感じられたのではないでしょうか。

賃貸オフィス物件を港区で、とお考えのみなさま。ぜひ、賃貸オフィスを探しに実際に港区を歩く際には、今回ご紹介した港区の歴史を思い出していただければと思います。歴史を知り、愛着を持った街に賃貸オフィスを求め、その地で働けるということは、とても素敵なことだと思いますから。

文 : 浅見 直希

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