秋葉原が好きになるコラム

秋葉原の知られざる歴史

文 : 松下 幸世

そもそも「秋葉原」という名前に歴史がありそう。

東京でも独特の文化を発信し、懐の深い街である秋葉原。何故秋葉原という名になったのかについては諸説ある中、有力なのは鎮火の神である「秋葉大権現」が由来であるという説です。

「火事と喧嘩は江戸の華」。物騒な事柄をも華と表現する格言からは、一筋縄では済まなかった江戸の歴史が伺えます。明治維新が起き、年号が明治に変わって早々、現在の千代田区、秋葉原一帯は大火に見舞われました。政府は、焼け野原に鎮火の社を立てることで混乱の収集を図りました。火事を鎮める秋葉大権現を招致したのであろうと早合点した町人は、社周辺を噂話で秋葉大権現のある場所「あきばっぱら」と呼び、それが訛って「あきはばら」となったそう。鉄道の整備後に地名は定着し、電化製品や部品といった比較的火気に近いものを取り扱っても、現在の秋葉原は大火を免れています。二度目に広範な焼け野原となった第二次大戦後に現在の街の姿となった為、江戸の歴史は忘れこれからも火事と全く無縁な千代田区であって欲しいものです。

電子部品がまず、ガード下に集まった。

秋葉原の現在の姿のルーツは、どの辺りにあるのでしょうか。話は現代史へとシフトします。東京一帯に壊滅的な状況をもたらした第二次世界大戦後、すでに国鉄、都電など交通の便が整っていた千代田区では、戦前から営業を行っていた家電関連企業が一気に活躍しました。そして、戦後の混沌とした世相の中では、技術によって生活の便宜を図るだけでなく、情報を手に入れたいという大きな欲求が生まれます。闇市の勃興する秋葉原では、生活家電以外に真空管を使ったラジオを取り扱う業者が盛況となりました。そのような業者は地価の比較的安い場所に店を構えました。それが俗に「ガード下」と呼ばれる場所だったというわけです。一説によれば真空管を商売として取り扱ったのは、当時の電気工業専門学校、現在の東京電機大学の生徒だったそうです。さすが理系男子!

建築基準法では高架橋下に分類される「ガード下」は「高架道路下占用許可基準」等の制限を受けます。当然乗り物が上を走る構造ですが、ガタガタと振動したり熱気の残る空間が何となく落ち着いて好きだという方も多いらしく、神田や秋葉原界隈など千代田のガード下については、なんと現在写真と店舗の特徴を集めた学会も発足しているようです。確かにガード下の喫茶店などに入るとじんわりと電車の体温のようなものが感じられるため、まずそんなスペースから空間を有効に活用するというのは人の感覚に即しているように思います。

表舞台の変化が激しく、貸事務所は盛況な秋葉原ですが、秋葉原のガード下にて発展した電子部品を商うお店は、基本的にスタンスを変えずに店の中に小さな箱に入った品物を並べるという形式で今も健在です。なにやら沢山陳列された市らしいお店の雰囲気を味わってみたいという方には、電球などを取り扱っている専門の商店がお勧め。幾つかの専門店がありミニマムなスペースにびっしりと商品が並びます。可愛らしい豆電球やテープ状のカラフルなLEDも販売されており、その中には電子部品というものに縁がなければ全く想像もつかないような変り種もある為、見ていてとても楽しむ事が出来ます。まだUSBメモリが現在のように破格ではなかった頃、そこそこの容量のものを金額を抑えて売っていたのも、秋葉原の奥まった部分にあるお店でした。大半はよくわからず使いこなせない部品ですが、急速に発展したLEDも以前は工作用の小さなパーツ程度のものしか売られていなかった事を考えると感慨深いもの。秋葉原では将来ノーベル賞の歴史に名を連ねるような希少なパーツが前途有望な学生に生み出され、今も街のどこかにひっそりと眠っているのかも知れません。アイドルとアイドルの関連製品や各種萌えキャラが当然のように歴史の表舞台に立つ陰で、貸事務所で部品に未来を託している有能な研究者も多数存在するのでしょうか。頑張って善良なロボットやプログラムを開発して欲しいものです。

貸事務所の備品類をまかなうのにも、周囲に最適なお店がある秋葉原では、そんな優しい気分になります。

神田や秋葉原の天才学生がノーベル賞の歴史に名を連ねるのはひとまず未来の世代に期待するとして、2013年は秋葉原の高架下開発史に「CHABARA AKI-OKA Marche」の登場という新たな歴史が加わった年です。JR東海の行う大規模な再開発事業ですが、フォーカスされているのは秋葉原から御徒町に至る高架下。そこに集まる職人や日本の食というコンセプトです。

アキオカマルシェが新しい歴史を刻む

株式会社ジェイアール東日本(JR東日本)は、秋葉原と御徒町間の高架下に、かつてその場所に市を出した「神田青果市場」を偲んで日本の名産品を扱うアンテナショップを開きました。家電の盛況と並行して、昭和3年から平成元年まで、神田市場では果物や野菜が商われていました。そういえばあまり自然食品を食べる事が出来ない印象が強かった秋葉原で、これからは全国の名産品を購入する事が出来ます。顧みると千代田区、神田や秋葉原は果物から家電、アイドルまで幅広くお店を開きたくなる土地柄である事は確実で、時代は変わってもそれこそが街の歴史の要です。普段意識する事は少ないですが、貸事務所さがしの際に思いがけない縁が見つかる可能性も秘めています。同時に、ちょっとマニアックで通常の勤務の帰りには立ち寄りがたかった秋葉原に、立寄りやすくなる事確実です。事務所からの帰りに、気軽に高架下を訪ねましょう。不動産や物件探しの際も、楽しみが増えそうです。

古くから営業形態が変わらなかったり、店の定位置が決まっていてある意味高嶺の花でもある千代田区の高架下物件ですが、耐震補強工事が完了し、築年数は経たもののしっかり設備の整っている神田などの周辺の中堅物件も、とてもいい味出しています。じっくりと探せば千代田という土地でありながら賃料の設定も手ごろな貸事務所物件も沢山。そこから始まる新しい歴史にも、これから大いに期待が出来そうです。

文 : 松下 幸世

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